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「自己開示」という最高のドラッグ、最高の快楽

「自己開示」である。

このブログのコンセプトにもなっているのだが、もう一度皆さんに問うてみよう。

皆さんは「我慢」してはいないだろうか?

そう、多くの人は我慢をしながら生きている。

それは例えば、人間関係に対しての我慢や、お金に対する我慢自分の地位に対する我慢かもしれない。

何にせよ、人は大きな我慢をしながら生きていることに代わりはないのだ。

そして、これら我慢から生まれる窮屈さというのは、「依存」によって引き起こされていることがほとんどだ。

であるから、そういうものを仙道気功由来の「超越術」で解消していく、というのが私の大きな目的になっているのだ。

今回は、そんな数ある我慢の中から「人間関係」に関してその語っていくことにしよう。

目次

■あなたは自己開示が出来ているか?

まず聞くが、あなたは「自己開示」が出来ているだろうか?

『自己開示?それはどういうことかしら?』と、初めて聞いた人に向けて若干補足しておこう。

自己開示とは、『自分関すること(特に極めてプライベートな情報までも)を相手にありのままに伝える行為』のことだ。

このことと私たちが抱える我慢に何の関係があるのかというと「人間関係で抱える我慢」のほとんどは、大雑把に言えばこの自己開示によって解決していくことがほとんどだ。

なぜかというとこの自己開示には、あなたが抱える我慢を超越するような「快楽」をもたらすからである。

少し具体的に言えば、我慢を我慢と思えないぐらいに「どうでもよくなる」とでも言えばいいかもしれない。

それだけ、「自分をさらけ出す」行為というのは人の精神衛生上、重要な意味を持つのである。

だから言ってしまえば、自己開示がうまく出来ていない人であればあるほど、「とても生きづらく、とても苦しい思い」をしながら生きていることになる。

■自分をさらけ出すことはドラッグでトリップするのと同じ

自己開示でもたらされる「幸福感」というのは、ドラッグでトリップした際の快楽に近い。

実際、「メチレンジオキシメタンフェタミン MDMA」という化合物から作られるドラッグは、愛のドラッグなどと呼ばれ強い「共感作用」を生み出す。

MDMAには様々な種類があり、一般には「エクスタシー」や「モリー」などと呼ばれ親しまれている。

このMDMAから生み出される幸福感というのは、自己開示からもたらされるものである。

つまり、MDMAをヤルと究極に自分を解放した気になる、というわけだ。

日本生まれのヒッピーとして世界各地を旅した作家 真中史雄氏の著作『エクスタシー 愛のドラッグ』には、MDMAによってもたらされる自己開示の快楽を描写したくだりがある。

少しご紹介しよう。

とにかく変わったのだ。

具体的に何が起こったのか?そのことを書くのに少々抵抗を覚えるが、その抵抗が男の自尊心に端を発していること、そして、そんなものは自我的産物であって、心にとってはなんの価値もないクソみたいなものであるということはわかっている。

だから、あえていえば、私は知り合って二十年、結婚して十年になる糠味噌臭い妻に対して、初めて愛の言葉をべらべらとしゃべり始めたのだ。まったく夢のような話だが、事実は事実だ。

〈中略〉

「ふつう人間にはいろんなブロックがあって、さまざまな欲望が渦巻く俗物的な物質社会に長く居ると、ブロックは固くなる一方だから、いくら最高級のエクスタシーを食べても、なかなか素直になれない。でも真中さんは違う。本当に素直だ。そして優しい」

そう、感謝。

彼も決める前にいったように、エクスタシーの世界に入ると、周囲の者に対して無条件に感謝したくなるのだ。それも、世界に向かって「ありがとう、本当にありがとう」と思わず声に出していってしまうほどの感謝の念。

真中史雄『エクスタシー 愛のドラッグ』より

MDMAをヤルと「感謝の念」という自己開示によって快楽がもたらされる。

その感謝というのは、まあここではなんでもよくて、著者の真中氏のように奥さんだったり、全く関係ない世界だったりするのだ。

つまり自己開示というのは、あなたが日々生み出す我慢をブチ壊して、「最高の快感」「最高の開放感」を生み出す秘密であるのだ。

■自己開示は共感されなければ意味がないのか?

勘の良い方であればお気づきのことであると思うが、MDMAの高揚感は「共感」である。

ドラッグがキマっていると、周囲が思う思わずに関わらず、安心感を感じる。

つまり盲目的に「この人であれば自分を分かってくれる」という安心感があるから、自分のことをベラベラ喋るわけなのだ。

それでは、自己開示も他人に共感されなければ意味がないのか?

これは厳密にいえば「そう」である。

自己開示を行なったことによってなぜ快楽が生まれるかというと、「認められた」ことによる安心感が作り出されるからだ。

つまり、安心感によって自分を保つことは一種の快楽なのである。

昨今は、この安心感を得やすい反面、麻痺しがちであるように思われる。

SNSで自己開示を行えば、安易な安心感を得ることはできるが、周囲と比べてしまうことでより強い安心感を求めがちであるからだ。

他人との間で安心感を得ることは、それだけで幸せになれるとは限らないのだ。

■自己開示を行うべきは自分自身である

ここまでダラダラと書きたいこと書きつらねたのは、MDMAのせいではない(笑)

結論からいえば、自己開示を行うべきは「自分自身」なのである。

自己開示を行うべきは決して他人ではない。

他人には遠慮して言えないことも、自分には問いかけることが出来るだろう。

自分自身に自己開示を行う場合、ちょっとしたコツがある。

それは日々の生活を「意識的」に行うことなのだ。

何気ない、当たり前のように思える出来事に意識を向けてみる。

そうすることで、気づけなかった物事にフォーカスすることができる。

そうやって色々な物に「気づく」習慣をつけることで、自分自身と向き合った時に快楽を生み出しやすい。

『ああ、私の生きづらさ、心苦しさは、こういうことだったのか』

そう、気づくということは「自分自身に共感してやること」なのだ。

今、我慢を強く感じているような人は、ひとまず共感を外に求めるのではなく、自分自身の中に求めることで幸せを作り出すことができるかもしれない。

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