最近よく『瞑想はやった方がいいんですか?』とか『瞑想にどんな意味があるんですか?』とか、そういった質問をよくいただくようになった。
もちろん「やった方がいい」に越したことない。
皆さんもなんとくそうだろうと思うだろう。
しかし「なんでやった方がいいのか?」と深く考えたこともなく、とりあえず瞑想しておくかと毎日取り組んでいる人も少なくないと思う。
「心身を落ち着かせる」
このような名目で行なっているだろうことは、まあ想像できるのだが、それでは我々が「なぜ心身を落ち着かせる必要があるのか?」それを仙道気功の観点からご説明していこう。
■感情は「知覚と記憶」の結合である
まず、気功の最初の最初、導入の段階では、「手にモヤモヤしたものを感じる」だとか「体が熱くなる」などの体感を得ることが多いだろう。
ただ多くの人がここで疑問に思うはずだ。
「じゃあいったいその後は何をすればいいの?」「気功って何?」
そう、ではこのような「気」をまがりになりにも感じることができたその先に、気功は私たちに何を与えてくれるのだろうか?
私たちが日々、数秒ごとに感じている「感情」はどこから来ていると思うか?
それはつまり「知覚」「五感」からの入力によって起こっているのだ。
そうした知覚を受けることで、「記憶」が引っ張り出されることになる。
つまり通常体験している感情とは、過去の記憶の副産物でしかないのだ。
■気功とは「純粋な知覚」によって上達する
これらを踏まえて、それでは「気功」を上達させるには、いったい何をすれば良いのかというと、純粋に目の前に起こる「知覚」を捉える必要があるのだ。
先ほどもご説明したとおり、私たちは知覚や五感を感じることで、記憶が立ち上がるようになるわけだ。
『ああ、この刺激は●●ね、知ってます』
こんな具合に、その刺激に対して、あらゆる判断をくだしているのだ。
この状態はすなわち、理性によって物事を捉えていることと同義なのである。
だからどんな神秘的な体験をしたところで、それに気づくことがないのだ。
これが「見えている者」と「みえざる者」の最大に違いである。
つまり正直な話、気功や神秘行を今以上に上達させたいのであれば、目の前に起こる物事を純粋に知覚していく必要がある。
つまり、刺激そのものをダイレクトに体感することなのだ。
その導入として「瞑想」は手っ取り早く効果を体感することができる方法である。
なぜなら瞑想は、できる限り知覚を遮断して行われるわけで、余計な記憶の発生を防ぐ働きがある。
「いやいや、私は瞑想している最中もご飯のことお金のこと恋愛のことそのほか諸々が忙しく過ぎていくんです」
こういう場合は、瞑想中にテレビでもついているのではないかと疑いたくなる。
瞑想とは、このような日々感じる、記憶の取り出しによる感情の起伏をできる限り少なくすることである。
このような状態になると、脳は「脳波」を下げ、より高度な知覚の受容を果たすようになる。
つまり「気づき」だ。
これまでは、雑然とした記憶によって、知覚を受けても曖昧模糊と感じていたものが、一気にクリアに受け止められるようになるのである。
これが瞑想の真の意味だ。
だから一度の瞑想でなんとかなるというものではなく、ある程度「習慣化」する必要がある。
そうしてあるがままの状態で、起こる全てを体感することができたら、あなたは気功どころかあらゆるものを一段上のステップに持っていくことができるし、灰色がかった日常に超越した感動を生むことができる。
あなたは頭でっかちになってはいないだろうか?
全てを理性的、科学的に捉えて安心することは結構だが、その判断は必ず理性的、科学的な枠の中にあることを覚えておいてほしい。
だから、あなたが今とっても窮屈で、息苦しさを感じているのであれば、そうした枠組みを超えた知覚を体験する必要がある。
あなたの知覚の受容をアップデートさせてみてほしい。
その簡易的な第一歩が「瞑想」にあるかもしれない、と付け加えておこう。