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ポワの技法と死の解釈について

死とは誰にでも平等に訪れるものである。

誰にでも訪れるものであるにも関わらず、その瞬間に際して準備をしておくことは難しい。

つまり、誰もが「明日死ぬ」などと考えながら生きてはいないのだ。

チベット仏教には「ポワ」と呼ばれる身体技法が存在する。

チベット仏教の修行を積むものにとって死は、恐ろしいものではなくて、全ての因果から心を解放させることができる最終到達地点なのである。

ポワという最高位の技術は、心を体から抜き出して、より高みに自らをいざなうことを目的としているものである。

つまりポワとは、再生にいたる過程で行われる、次元を上昇させるための転移(ポワ)なのである。

ポワには大きく分けていくつかの方法がある。

ここでは日本におけるチベット仏教研究の第一人者として名高い 中沢新一先生の著書から引用を行なってみる。

【生前にポワを自身で行える場合】

①最高の法身のポワ

②高度な報身のポワ

【死に際してポワを自身で行える場合】

③普通人の応心のポワ

【優れたラマやトゥルクにポワを行なってもらう場合】

④死者を追跡して慈悲の釣り針で釣り上げるポワ

【高度な修行もポワを行なってくれるラマ等もいない場合】

⑤凡夫の三つの心象によるポワ

引用:中沢新一著 『虹の階梯』より

おおよそこのように分類される。

ラマやトゥルクというのは、大雑把にいえば「師匠」のようなものである。

注目すべきは『⑤凡夫の三つの心象によるポワ』である。

チベット仏教の高度な修行により、生前から死後の世界について深い瞑想の最中に体験しているものであるから、彼らにとっては死はすでに既知の世界なのだ。

しかし、そうではない一般人にとって死はおよそ想像だにできない恐怖でしかない。

そうした人らに対しても、高度な修行を必要とせずにポワができるような技術が伝えられているのだ。

これがチベット仏教が一般層にも親しまれ、数々の教義から枝分かれして密教化していった秘密でもあるのだ。

本日の投稿は、特にそのボワの技術について詳しく述べようとするものではない。

興味が湧いた人は相談にくるか、文献にあたるなりして、自分なりのポワを探してみてほしいと思う。

ここで私が言いたいことは、「死の間際のあり方」なのだ。

日本人にとって宗教とは、すでに形骸化されたものになって久しい。

なんとかなく墓参りをして、なんとなく先祖を供養するといったイベント事使われるツールのようになってしまっている。

そうした文化を反映してか、日本人は死の間際に「後悔」をする人がほとんどであるのではないだろうか。

何も私は宗教を信じろ、肯定しろと言っているわけではない。

だが、何かを信じることは、「死」さえも受け止められる技術が身につくのである。

私の考え方だが、ポワとは何も死を恐るだけのものではない。

チベット仏教には特殊な時間輪の考え方がある。

それは時間は「未来から現在、そして過去に向かって流れる」というものである。

だから、「死」というものをあらかじめ肯定的に受け止めることで、結果的に現在を、そして過去にも大きな意味を見出し、あますところなく、その使命を全うしようとしているのではないかと、私は思うのだ。

だから何かを盲目的に信じることは、それだけで死すらも超越した力を得るにいたるのだ。

このような人の信仰心を逆手にとったのが、オウム真理教のポアの儀式だった。

*正統なチベット仏教に伝わるポワとは区別して「ポア」と記載する。

信じること自体はとてつもないエネルギーを生むが、信じることを完全に人に依存してはダメだ。

肝心な「心」は、あなたのが最後まで肌身離さず持ちつづけなくてはならない。

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