私は幸せなことに、多くの方々が私を慕って相談をしに来てくれる。
彼らが抱える悩みはまさに十人十色だ。
『大好きな人が振り向いてくれない』
『お金がなく本当に辛い』
『夫婦で会話がなく仲は最悪だ』
『自分の人生がどうしても歩けない』
すぐに解決できる悩みも、そうでない悩みもある。
タオの教え、仙道の教え、そして私の超越術の教えをもとに、彼らが本当の自分を取り戻せるように示唆を与えるのだが、そんな中で各人に共通してあることを教えている。
それがこの記事のタイトルである「歩くこと」である。
「自分の人生が生きられないこと」と「歩くこと」に関係なんてあるのかと、最初は皆ポカーンとして聞いているのだがこれが関係大アリなのだ。
一つずつ順を追って説明していこう。
■人は「日々」という名のリズムの中に生きている
人は、生活そして人生をストレスなく生きていくために、自分の行動を「形式化」していく。
人間誰しも初めての経験にぶち当たれば、多かれ少なかれストレスを抱くはずだ。
このようなストレスはできる限り最小限に抑えたいと思うことだろう。
だからこそ人は、毎日の生活の中にリズムを見出し、新しい事柄に触れる回数を極力減らそうとする。
つまり、そうしたリズムの形に「自分の方を」合わせていくようになるのだ。
これを一般には、「環境に順応する」と言う。
形式的にある程度決まった行動ができるようになると、人は安心するだろう。
仕事で何かポカをしたとしても、それが毎日続くわけではないからだ。
つまり、こうして生活を形式化して、その中に自分をハメ込んでいくことは、人生を楽に生きるための人間の知恵なのだ。
■無意識はあなたのストレスを隠してしまう
しかし、こうして「形の中」に自分を当てはめていくことは、必ずしも良いことだけではない。
形式化された生活は「無意識」によって動かされる。
ボーッとしていても普段と同じ電車に乗り、普段と同じ道を通っていつの間にか職場についていた経験がある人もいるだろう。
これは、生活のリズムに慣れてきたことによって、無意識に行動できるようになったことの現れである。
ストレスなく行動できるようになったし、ボーッとしていても職場に到着できるなんて、良いことづくしのような気がするが、これがとんだ間違いなのだ。
日々の生活が無意識に行えるようになるということは、すなわち「慣れてしまった」ということである。
先ほども話したように、環境に順応した結果なのだ。
勘の良い読者の人はピンッときたかもしれないが、「慣れてしまうこと」は「ストレスを麻痺させていること」と同じなのだ。
日々あれこれ問題や悩みがあることだろう。
しかし本来であれば、許せないことについても『まあ、このぐらいだったら仕方ないか』という具合にストレスを感じない代わりに、自分を押し殺してしまう。
つまり無意識は、ストレスと引き換えに本当の自分の感情を隠してしまうのだ。
■「歩くこと」は自分を思い出させてくれる
そんな毎日が、人間にとって良いことであるはずがない。
こういうことが繰り返されると、「どれが本当の自分で」「何がしたいのか」が全く分からなくなってしまうのだ。
「歩くこと」は、そういう自分を元に戻すための最善の策であり、私は多くの弟子たちにそれを伝えてきた。
なぜ歩くことが、自分を思い出させてくれる秘密の方法なのかというと、「意識を扱う練習」に最も適しているからだ。
「歩く」という行為は、私たちが人間として最初期の方で獲得する能力の一つである。
それだけ長きに渡って行い続けきた行動であるから、当然のように歩く行為というのは「無意識化」されている。
それを「意識的に歩くこと」で、「無意識」から「意識」が立ち上がり、本当の自分の気持ちを教えてくれるようになるのだ。
『ああ、私ってこんなこと悩んでいたのかな』
『こんなこと悔しかったのかな』
無意識的に行われていたものを、意識的に行うだけで自分の内面に問いかけることができるようになるのである。
釈迦が行なった瞑想にも「ヴィパッサナー瞑想」というものがある。
その中に「歩行瞑想」というものがあり、これは文字通り歩きながら瞑想するものなのだが、無意識的な行動をあえて意識的に行うことで、深い自己への探求を可能にしている。
瞑想というと、どうしても「イメージで行うもの」という先入観が強いが、それだけではない。
ヴィパッサナーの歩行瞑想のように、まず体を動かして行うものもあるのだ。
体を動かすことは意識を動かすことよりも遥かに簡単である。
体を動かして意識の行方を観察する方法の一つに、私がご紹介した「変性意識」がある。
■変性意識は2つの感情をトリガーにすることで覚醒する
だから、「意識的に歩く」という行為は、軽い変性意識に到達すると考えても良いのだ。
■どのように歩けば良いか
方法は簡単である。
ただ「ゆっくり歩く」これだけである。
周囲は忙しなく足早に通りすぎていく。だがそんなのおかまいなし、気にしない。
『あいつら忙しそうだなあ、今日俺、有休だもんね』
こんな具合に心にゆとりを持ちながら歩いていく。
慣れた道ではなく、今まで通ったことのない道、寄り道をしたりしても良いだろう。
意識的に歩くことでこれまでしまわれていた感情に気づくことができるのだ。
目に飛び越んできたものでも、今まで未消化だった物事でもなんでもいい、ボーッと歩きながら意識の変化を遊んでみてほしい。
そんな自由な遊びの時間は、きっと本当のあなたを思い出させてくれるはずだ。